2012年4月28日土曜日

「天秤」の語源は何でしょうか。天は、何を表しているのか教えてください。

「天秤」の語源は何でしょうか。天は、何を表しているのか教えてください。







てんびん=天への便(信仰生活)の分量が明らかにされる、

人間が天迎えられるか,否か、の意味が玄語源です。



『エジプトの死者の書の天秤』

羽と心臓を秤にかけることは、死者の生前の心使いが天の神の心に適うものであったのなら、天に飛び帰ることが出来る。



羽より心臓が重ければ犬に投げ与えられてしまいます。

即ち、天(神)は居ぬとして真を無視(マムシ=腹の虫の蝮)して生きた犬畜生根性のものは天に帰れないということです。



犬=肉体本能=ユダヤ(憂蛇野=穢場=エバ=肉で助で母)、蛇(肉体を得た仇謀=アダム)は竜(日を釣上げて光、白、金、天)になり、龍(月の闇に生きて黒、青、赤、犬)にもなる=海老で鯛を釣る=精神に噛み付く犬を治めてものを云わせることが天国(彼岸=悲願=三途の川を渡る=三位一体=三→王→主)への荒波を航海することである。



犬→天=666→999=頭を天に向ける=腹の虫の反省の日々を送る



シック、ス(病手=癌=品の山=物品主義=6思=無視=虫)→



→ナイン(成意運=上を向いて歩こう=逆元『6』を究明する=すき焼きソング=肉体を火,日、陽、霊で包む=ドッグから出て世間の酸い葡萄酒を受けて行く=荊冠頭を反省してお洒落な観音の蓮華の花冠に作り直す=髑髏の丘の十字架刑の教え=頭を作り直す=バベルの塔を再構築する=ベルバラ=バラバ(腹場=ユダヤ=合理主義=棘のある花)の扇動にベルを鳴らし天神とのクロスから離れないこと=九=神の法(ノ=右回転=殻の問=玉手箱)と手(て=ん=左回転で投げ返す=鳩=雉=隼)=神人の「あ、ん」のキャッチボール



秤=禾平=、

禾=ノ木=法を頭に生きる神の息子、木=十、川(三=天地人精神結ぶ肉体の三位)、三位の途にI(愛=天意=法=水を去る=火日陽霊)を迎えれば王となり、主(ゝ=一点=ワン=目的=十、テン国)に適う=木+日=東=日出国=ジャパン=蛇(腹の虫)をパンと打つ=上下、神人、左右の二波の手を打ち合わす=二波トリ=かしわ手を打って魂のパンを得る=弗の二本矢の迷いを二津翻(にっぽん)して一本に絞る=変な赤い恋に愛(天意)を入れて真珠にする=赤い日の丸=平成



禾=カ、いね、

カ=苦労の荷を背負うことによって結果(魂の結実)を得る、

いね=意寝(ネブカデネザル=寝深で子猿=人の出発=バビロン=場美論=物品幸福論)の意義を探求して人(霊止)として精進する=稲=旧い角(肉体)を結実の助(意根)とする



平=一ソ十=天の下で神(十=火+水)に従って粗(苦労)に頭を突っ込んで生きる=水を火で温める=肉体を精神の刀で治めて汗をかかす=辺=悲願に渡る帆掛け舟=風呂=罪穢れの垢を落とせば天国に入れる=湯業のすすめ=火水の調和に殻田を浸し精神の目標とする=プロメテウス=プロフェッショナル=神の火を知り我が物とした者=命=始めを叩いて天に向かう=肉体(母=真魔の間)を利用して精神(魂=真我)を育てる



てんびんとテレピンは似ています。そしてテレビンはTEL=電話で、ビン=便=鳩=平和、に通じています。

テレピンは油絵を描く時に使い、絵の具を定着させる力を持ちます。日本語では松根油です。



松の木ばかりがマツじゃない、今か今かと気を揉んであなた待つのもマツのうち



神は私達が地の虫として体(殻田=科学文明の開花)を育て、秋には蛹(虫の真の用)となって繭(内省=意図と虫気を分別する=開智=蜂の針)を作り、羽(霊物の調和)を育てて翁(八咫烏=開眼した盲人)なることを今か未だかと待っておられます。

この催促が911テロです。

冬(1万2千年毎の地の耕し)は近い、魂を真珠にして地の種人(夂ゝゝ=千年王国)として残される勝利に立つ我(ウイン、ター)を示せと警鐘乱打されているのです。



アブラハムはテレビンの木の傍らに住居を構えたとあり、松とせずにテレビンとしているのは、神と電話、手紙のやり取りを直接せよというメッセージです。

松毬は108弁あり、弁には白雪を王冠とし、四辺の凹んだ富士山が付いています。

これはクフ王のピラミッドにパラレルです。

正観音を松観音とも言います。

松葉の二本足は神人の二人三脚であり、人の字であるのです。

そして松の実は真珠色をして、美味であり、螺旋を描いて飛んで行く、パイン(羽を立派に把むべし=パン意)は荒川(皮)を静かに登ることで香る=レイバックイナバウワー=霊の後れを否(見返る=ミカエル)としてバウ(拝礼)ワー(和明)せよ。



犬は日本ではワンワンで始めに従って王となれですが、英語ではバウバウで、場に生きることは天を拝礼することである、と教えは通じています。



世界と個人が天秤(十字架)にかけられる晩秋の時、真理の御霊が救いのコーチ(日の光)として現れると約束されています。



「君が為、春の野(天の試験の時)に出て若菜(若狭=罪穢れ)摘む、わが衣手に雪はふりつつ」



秀思學

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